正規メンバーになった、はやかです。
五十嵐早香2022.01.24
その日、五十嵐早香は人生トップクラスの過ちを犯した。
「充電コード、入れた。財布とスマホ、リュックに入れた。マイ箸、入れた。よし!」
朝早くに家を出た。
緊張と久しぶりのイベントに心が踊る。
かなり余裕を持って出たので、駅に着くと朝食のハンバーガーを買って再び集合場所にスキップで向かった。
ちゃんとした朝食を買うなんて久しぶりだ。
遠くから同期達が見えたので、少し駆け足でそこへと向かった。
そしてなにかに気づいた。
違和感だ。
今私は駆け足で向かっている、朝食を持って。
朝食のみを持って。
駆け足から猛ダッシュに変更してマネージャーさんめがけて走った。
「どうしたの?」
「あの...!はぁはぁ...あの、持ってないんです!!キャリーケース、持ってないんです!!!」
「え?!キャリーケースどこ?!」
「家に置いてきました!!」
こちらをちらちら見る先輩や同期達の目線は気にならない。
気にする余裕もなかった。
マネージャーさんと相談し、いっそキャリーケース無しで向かうことも考えたがそれは現実的ではなく、結局私だけ猛スピードで取りに行くことにした。
朝食をぶら下げながら駅から家まで走る。
家に着くと部屋のど真ん中にキャリーケースが置いてあった。
なんでこんなところにいるんだよ。
なぜかキャリーケースにむかっ腹がたったが、100パーセントお前のせいだ五十嵐。
ゴロゴロ音をたてながら再び駅へと走る。
待ち合わせ場所に着くとマネージャーさんが1人待っていてくれた。
頭を何度も下げ、新幹線に乗った。
一息つくと冷めきった朝食を一人で食べた。
冷めててもうまかった。
新幹線が東京に到着し、みんなのいる場所へ向かった。
着いた時には練習はとっくに始まっていた。
「遅れてしまいすみませんでした!!!」
ダンスの先生や偉い人達がズラっと座ってるテーブルの前で、頭を90度以上に下げて全方向に謝った。
額に汗がじんわり出る。
そして翌日、中野サンプラザで新世代コンサートが行われた。
いよいよ本番で緊張していた自分に、すれ違った偉い人が声をかけた。
「今日は大丈夫か?」
「え、すみません、昨日大丈夫じゃなかったですか?」
「いや、キャリーケース、持ってきたか?」
ははっと笑うと偉い人は去っていった。
誰だ、キャリーケースを忘れたことを広めたのは。
今まで食べてきた弁当の中で1番うまい中華弁当を完食すると、戦闘態勢に入った。
メイクさんに澤田奏音ちゃんとお揃いで涙袋をキラキラにさせてもらい、いつものように鏡に向かって魔法の言葉をかけた。
「今日良いね、可愛い!可愛いよ君!」
と、指さす。
これは劇場公演の前にも必ずやる。
不思議と自信が湧いてくるから単純なバカも悪くない。
ドタバタ始まり、気がつけばいよいよ終盤。
そして斉藤真木子さんが出てきた。
薄々勘づいていた同期達はもちろんソワソワしだした。
そして私は他人事のようにニヤニヤしながらみんなの顔色を見ていた。
「五十嵐早香、チームKII」
この瞬間、私は困惑してしまった。
まさか私も昇格するなんて。
それと同時に、私の名前が呼ばれたということは、全員昇格が決まったのだ。
同期が涙を流す中、私は額の汗を拭った。
いいのだろうか。
左を見ると、同期達は濡れてキラキラ輝く目でお互いを見合っていた。
「よくがんばった」なのか、「離れても大丈夫」なのか、それは彼女たちにしか分からないが、そこには確かな意味と思いが交差していた。
そしてそこに私は居なかった。
なぜだか自分だけ別の世界に取り残されてしまった気がした。
最後の1曲は笑えていたかも分からない。
気づいたら終わっていた。
最後はみんなで挨拶をして楽屋へ戻る。
楽屋に戻ったらまたみんなで泣くのだろうか。
先輩がおめでとうと言いに来るだろう。
ろくにまだ先輩と関わってこなかった私にとっては1人の地獄の時間になるだろう。
居場所がない気がして楽屋に戻らずトイレに入ってしまった。
鍵を閉めれば1人の空間だ。
懐かしく感じた。入ったばかりの時、コテンパンにプライドも自信も削がれた日はみんなの前で泣くのが嫌でトイレに籠ったものだ。
そんな関係ないことを考えていても涙がシャツへ落ちた。
徐々に涙が大粒になると、ようやく気づいた。
なんて私は弱い人間なんだろう。
みんなと一緒に泣く権利もなければ、みんなの前で泣く勇気もない。
そんなことを考えながらも音を立てないようにトイレトペーパーで鼻下を拭った。
おめでたいムードの中でガチ泣きしてる人がいたら本気で心配されるだろう。
泣き止んで個室をでて鏡を見て、とても出れる状態じゃなくてまた個室に籠ってを何度か繰り返したら、トイレに入ってきたスタッフさんに名前を呼ばれた。
「五十嵐さんー、いますかー?」
「あ、はい!」
急いでまたトイレトペーパーで顔を拭って、勇気を振り絞り外へ出た。
せっかく顔を整えてから行ったのに、マネージャーさんを見たらまた涙が溢れてしまった。
結局その後のコメント動画ではガッツリ泣き顔を晒してしまった。
同期と話したらテンションは回復したが、帰りのバスでもなぜだか涙がこぼれていた。
へたにイヤホンなんかで好きな曲を聴いて窓の外を眺めたからだろう。
どの世界でもそのシチュエーションは泣くってお決まりなんだ。なのに何故自らやってしまったのか。
マスクをしていてこんなに良かったと思える日はなかった。
そしてとても、とてもとても大切な日だった。
この日の事を思い出す時、それはまたトイレで泣く時なのだろうか。
それとも遠い昔になる日だろうか。
どちらにせよ、キャリーケースを忘れるのは最後でありたい。